誰がF1中継を殺したのか
1月8日にBSフジで放映される『F1グランプリ 2015総集編』にて2016シーズン以降のF1中継を中止するとの噂が駆け巡った。
私も固唾を飲んで放映を見守っていたが、幸いなことに、噂のみで終わり放映の中で特に2016年の放送についてのコメントはなかった。
昨年末から2016年の放映を巡っては、アジア(中国を除く)での放映権をFOXが取得したと報じられていたので、一応覚悟だけは固めていた。
バブル期のF1ブームの勢いは凄まじかったが、それ以後は視聴率的にも苦戦が続き
ここ数年は地上波での放送すら無かった。
BSと有料放送のCSでは、視聴者層の爆発的な拡大も難しく、いずれ先細ってくるのは目に見えていたが、いよいよ放送が無くなることが現実味を帯びてきた今、F1の中継の在り方とこの状況はどうして起こったのか今一度考えてみることにしたい。
最盛期(80年代後半〜90年代)と比較して登場するドライバーの個性が無い、バトルが減った、ルールが複雑化して分かりにくい、マシンがカッコ悪い、世界最高峰をうたっている割に規制がガチガチで開発もない、理由をあげればきりが無い。
これは決して日本人だけが思っていることだけでは無く、世界のF1の共通認識といっても過言ではない。
現に世界的にF1の人気は陰りが見えており2015年はドイツGPが財政難から中止になり、2016年はスペインGPが中止になるのでは無いかと噂が流れている始末。
共に現役トップドライバーの母国で、ドイツにいたってはチャンピオンチームであるメルセデスのお膝元であるのだから状況は深刻だ。
むしろ日本人ドライバーがいてもいなくても、日本メーカーが参戦していないときでも常に日本でF1が開催されていたことを考えると、日本という国はまだ恵まれていたのだとすら思う。
確かにF1離れというのは世界的な潮流だ。
特にここ数年は、一人のドライバーが独走してシーズン半ばにはタイトルが確定しているという状況が続いており、ファンが離れてしまうのは無理が無い。
だが、日本のファンは前述したようにある意味とても我慢強い。90年代前半の華やかな時代が過ぎ去っても常に日本ではGPが開催され、多くのファンが足を運んでいた。
日本人ドライバーがなかなか上位に顔を出せない状況でも、サーキットでテレビの前でファンは応援を続けてきた。
その美しい関係がこのタイミングで終わろうとしているのか。
フジがF1の中継をスタートしたのは1987年。2015年シーズンで述べ28シーズンを放映していたことになる。
28年間、フジがF1で儲かっていたのは本当に極僅かな期間だろう。
おそらく1992年、よくて1994年まででは無いだろうか。
それ以降、フジはその成功した期間の幻影を求めて戦っていたに違い無い、何とかしてもう一度F1の熱狂を取り戻したいーと。。
だが、時代の巡り合わせも悪かった。バブルの崩壊に伴いF1へジャパンマネーの資金流入がストップし、日本人ドライバーの誕生が極めて難しくなったことや、Jリーグの誕生に代表される娯楽の分散化などで結局F1人気は回復せずに現代に至っている。
再び熱狂が生まれなかったということは、すなわち新規ファンの流入が無かったということと同義である。
昨年のラグビーバブルを見ても、熱狂を生むのはそれを長く見ている熱心なマニアでは無く、いわゆる『ニワカ』と呼ばれる大量の初心者である。
なぜ、28年もあった中で『ニワカ』が再び生まれなかったのか。
おそらく、90年代前半のインパクトが大きすぎたのだろう。
セナ、プロスト、マンセル、ピケ等の個性豊かなドライバーに日の丸ホンダの快進撃、そして日本人の期待を背負って戦う中嶋悟、いわば漫画のような劇的なストーリーがそこにはあった。
その時代に洗礼を受けたファン達は、次第に『原理主義者』となっていく。
その後にF1に興味をもった新しい信者候補に対して、圧倒的な上から目線でこう言うのだ。
『87年イギリスGPのホンダの1−2−3−4フィニッシュも見て無いのか』
彼らは自分達の経験した価値観が全てである。そりゃそうだ、初めて見せられたものがそれだけの価値があるものだったのだ。
だが、新しい信者候補はその価値観についていけない。
ミハエル・シューマッハに惚れてF1を見始めたのに、原理主義者にこう言われるのだから『ミハエルなんてセナが生きていればタイトルはとれなかったね』
この原理主義者達が作るいわゆる『ムラ社会』が、フジの思惑と反してF1が市民権を獲得できなかった理由だと考える。
フジは正直必死でそのムラを破壊しようとしていたと思う。
特に2000年以降、ホンダが復帰、トヨタが参戦するタイミングあたりでは地上波では相当冒険的なことをやっている。
CSの有料放送ではマニア向けには全セッション中継で担保をとりつつ、地上波では若いタレントを起用して初心者に優しい番組作りを試みていた。(残念ながら若干ピントがスレた企画ではあったが。。)
だがムラ社会の住人はここにも文句をつける。
『こんな放送はF1のイメージにあわない』
『タレントを起用するな!』
上に書いたが、フジはマニアにはCS放送という方法で担保しているのである。
地上波はいわば入門編、β版だ。
ここで気に入ってくれたら製品版を買ってくださいってわけである。
かくして、フジはサジを投げる。
ここ数年のF1のオープニングは全盛期と同じものをつかっている。
あのバブルの匂いしかしない、間が抜けた、グルーヴ感の無い音楽。
信者の新規開拓は諦め、古参ファンを繋ぎ止めることだけを意識している証拠である。
先日の記事で紹介したNHKの番組。
そこに2015年の開幕戦を青山のホンダ本社で見るファンが映っていた。
それを見て私は軽い目眩を覚えた。
90年代からまったく変わっていないズボン、シャツ、髪型、それはF1全盛期の初期衝動から一歩も動いていないファンそのものであった。
ムラに籠りきり、社会性を捨てたその姿はバブルの負の遺産そのものであった。
フジがある意味一番苦手としている層、それが亡霊のようにF1に取り憑いている。
そういった構造的問題を解決できないまま、フジはもがき続けてきた。
2016年の放送はどうなるのだろう。
個人的には28年もやったのだから、フジはもう手を引いても良いと思う。
本当に、お世辞抜きでお疲れ様と言いたい。
そろそろ新しいフォーマットで再び仕切り直してもよいタイミングだ。おそらくその仕切り直しはフジでは無理だろう。
わけのわからない言い方になるが、フジは優しすぎたのだと思う。
とっとと切り捨てるタイミングで切り捨てるべきだった。
FOXで我々はF1を見る。
そしてまた多分同じ繰り返しだろう。
次の放送局も、そしてその次の放送局も結局同じことた。
結局、日本のF1ファンを満足なんてさせることは出来ない。
どんなルール改正があっても、素晴らしいドライバーが現れても、渇きはおさまらない。
日本の、古参の、F1ファンが抱えている原罪はそんなものでは無いのだ。
つるやたかゆき